重建懐徳堂(重建懐徳堂設計図・平面図・玄関写真)
 
玄関
 

 江戸時代の懐徳堂は明治2年(1869)に閉校するが、それから約40年の後、懐徳堂の復興運動が盛り上がり、懐徳堂の再建が決定する。明治43年(1910)1月、大阪人文会の席上、西村天囚は五井蘭洲伝を講演、懐徳堂記念会の発足が決議された。
  さっそく精力的な顕彰活動が開始され、大正4年(1915)には重建懐徳堂の設計図が完成して8月に着工、翌年(1916)9月に竣工した。
  これによれば、重建懐徳堂は、東区豊後町19番地(現・中央区本町橋)の東横堀川に面した公道に西向きに配置され、公道から門を入り、車寄せ、講堂、その左側(北)に別棟の事務所があったことが分かる。
  図面の数値は尺貫法で記入されており、講堂床図面の数値「54.0(9間)×85.5(14間25)」によれば、縦26メートル×横16.4メートル、床面積425u(126坪)となる。その内、建物の大半を占める「大講堂」は、玄関・車寄せから廊下を通った奥(東)に配置されており、「五拾八坪五合」、その廊下を挟む二つの「小講堂」はそれぞれ「十七坪五合」と記載されている。大講堂の奥(東)の両側の空間は、この設計図面では、各々「講師溜 八坪」「(内)玄関 土間」となっているが、後にこれらは「素読室」「物置」に改造された。
  また別棟の「事務所」は2階建てで床面積は「四間」×「三間半」(14坪)。1階が「受付」「小使室」など、2階が「会議室」となっている。

設計図 平面図
 
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