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    大阪府學教授おおさかふがくきょうじゅ

    懐徳堂を代表する公印。篆刻者は前川虚舟(まえかわきょしゅう)。名は利渉、号は虚舟、別号は石皷館。通称一右衛門、清三郎。浪華の人。京都で高芙蓉(こうふよう)の門に学び、篆刻を得意とした。懐徳堂の中井竹山に師事して儒書詩文を学び、木村蒹葭堂の詩文のサロン「混沌社」(こんとんしゃ)に出入りしていた。こうした関係から、これらの印が生み出された。誠に雄渾な印である。
    なお、この印は、一辺6㎝を越える雄渾な印章であるが、印面部が石材、紐が木製であるため、長く紐部が脱落したままになっていた。そこで、平成17年(2005)、この資料の修復が行われた。資料表面に付着した埃や汚れを柔らかい筆などを用いて除去し、欠損部分を強化するため、アクリル樹脂をしみこませ、離脱していた紐は、エポキシ樹脂によって接合された。

    • 19
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    懷德書院敎授かいとくしょいんきょうじゅ

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    府學敎授・力學立言ふがくきょうじゅ・りきがくりつげん

    力學立言
    「力學立言」は入徳門聯の「力学以修己、立言以治人」(学に力めて以て己を修め、言を立てて以て人を治む)に基づく語。入徳門とは、懐徳堂の正門を入って左側にある庭「已有園」に通ずる門。その両側に掲げられていた竹製の聯が入徳門聯である。このことばは、自己修養とそれに基づく社会貢献の重要性を説いたもので、懐徳堂の基本理念を表している。なお、篆刻者の「曾之唯」(1738~1797)は本姓曽谷、字は応聖、号は学川、また仏斎居士、曼荼羅居、読騒菴。はじめ忠助と称す。京都の人で浪華高麗橋一丁目に居住した。高芙蓉の門人で、「木村蒹葭堂芙蓉の影子」と称せられるほど印風が似ていた。著に『印籍考』。細谷半斎など混沌社の人々と交流したことから、竹山との関係ができたと推測される。

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    天子知名てんしちめい

    「天子知名」とは、「天皇が名前をご存知である」の意。経学を好み詩作に長じた光格天皇(在位1780~1817年)が、ある時、公卿のたかつじたねなが高辻胤長に、「朕は嘗て竹山の書はみたれど、履軒のは未だ見しことあらず、履軒はあまり書をかかぬさうぢやノ」(西村天囚『懐徳堂考』)とお話しになり、これを聞きつけた篆刻家の前川虚舟が、儒家の光栄であるとして竹山と履軒とに磁印を贈った。「天子知名」とは、この磁印に刻されていた文字。なお、竹山と履軒の性格の違いからか、竹山はこの印を使用せず大切に保管していた(印譜注記にも「存而不用」とある)のに対して、履軒は使わないのみならず、行方を不明にしてしまったという。なお、篆刻者の「前川虚舟」は、名は利渉、号は虚舟、別号は石皷館。通称一右衛門、清三郎。浪華の人。京都で高芙蓉の門に学び、篆刻を能くし、特に字の彫刻に優れていた。懐徳堂の中井竹山に師事して儒書詩文を学び、木村蒹葭堂に出入りし、岩倉具選(家具)に伝えた。

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    懷德堂長かいとくどうちょう

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    積善之印せきぜんのいん

    「積善」は竹山の名。竹山の印は一辺6㎝(約二寸)を越える雄渾な印が多いが、これは、その中でも最も大きな印の一つ。篆刻者は当時「印聖」と呼ばれた著名な篆刻家「高芙蓉」(1722~1784)である。

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    竹山居士ちくざんこじ

    「居士」は、学問や徳を備えていながら官に仕えない人のこと。

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    中井積善・子慶氏なかいせきぜん・しけいし

    子慶氏
    「子慶」は竹山の字。

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    積善之印せきぜんのいん

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    子慶しけい

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    竹山ちくざん

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    竹山居士・浪華釣客ちくざんこじ・なにわちょうきゃく

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    子慶氏しけいし

    「子慶」は竹山の字。混沌社社友の葛子琴(1739~1784)によって作成された印である。石印であるが、上部のみ木製である。

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    臣積善・非艸非木九仞一簣しんせきぜん・くさにあらずきにあらずきゅうじんいっき

    非艸非木九仞一簣
    「非草非木」とは晋の戴凱之撰『竹譜』の語で、竹を指す。「九仭一簣」とは『尚書』旅?の語で、原文は「為山九仭、功虧一簣」(山を為る九仞、功を一簣に虧く)。高い山を築くのに、あとひと一もっこ簣というところで失敗するの意で、ここでは「山」を表す。すなわち竹山はこの八文字で「竹山」を表すとした。

    • 45
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    常世郷侯・竹山とこよきょうこう・ちくざん

    常世郷侯
    「常世」は日本語での特別な意味で、永久不変、不老不死、黄泉の国などの意。

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    積善せきぜん

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    髯公同物・子慶ぜんこうどうぶつ・しけい

    髯公同物
    美髯公とは三国志の関羽のこと。竹山は、享保十五年(1730)五月十三日に懐徳堂内で生まれた。この誕生日が竹酔日(竹を植えるのに良いとされる日)であり、また三国志の英雄関羽の誕生日と同日であることから、竹山は後に同関子の号を用いた。

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    子慶・號竹山しけい・ごうちくざん

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    竹山ちくざん

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    竹山居士・雪翁・囂々ちくざんこじ・ごうごう・せつおう

    囂々
    「囂囂」は、その地位に満足して心静かなさま。『孟子』尽心上篇に「人知之亦囂囂、人不知亦囂囂(人 之を知るも亦た囂囂たれ、人知らざるも亦た囂囂たれ)」とある。

    雪翁
    「雪翁」は竹山の号。

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    積善印信せきぜんいんしん

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    竹山居士ちくざんこじ

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    積善印信せきぜんいんしん

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    竹山散人ちくざんさんじん

    「散人」は俗事に心をとらわれず、民間にいて官職につかない人のこと。詩人や画家などが雅号の下に添えることば。

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    積善之印せきぜんのいん

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    子慶しけい

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    積善之印せきぜんのいん

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    竹山居士ちくざんこじ

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    積善印信せきぜんいんしん

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    攝津翁・積善之印せっつおう・せきぜんのいん

    攝津翁
    「攝津翁」は竹山の号。「摂津」は旧国名。「摂州」「津の国」とも言う。また、この号は「雪翁」(P29参照)に音通する。

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    子慶甫しけいほ

    「甫」は男性の長老。転じて、年長の男性を呼ぶとき、その名につけることば。

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    竹山居士・研田無惡歳酒國有長春ちくざんこじ・けんでんにあくさいなくしゅこくにちょうしゅんあり

    研田無惡歳酒國有長春
    「研田に悪歳無く、酒国に長春有り」。唐庚『眉山集』次泊頭に「硯田無惡歳、酒國有長春」とあるのに基づく。

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    竹山ちくざん

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    子慶氏・攝翁しけいし・せつおう

    攝翁
    「攝翁」は竹山の号。「攝津翁」の略称。P39参照

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    積善・積善 子慶せきぜん・せきぜん しけい

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    積善印記・七十四翁せきぜんいんき・しちじゅうしおう

    七十四翁
    竹山七十四歳の詩作に「七十四翁」とある。『中井竹山詩箋』亥歳元旦の詩「干支感念坐清晨、久在泥塗絳県人、二首六身年已過、又逢二首六身春」に「七十四翁竹山居士書」と記す。

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    竹山・鈐縫ちくざん・けんぽう

    鈐縫
    「鈐縫」とは、継ぎ目、合わせ目の意。「鈐縫」印は、通常、書物や文書の見開きになっている左右二葉の中央部分や切り離し部分に押印される。

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    伯慶・竹山居士はくけい・ちくざんこじ

    伯慶
    「伯慶」とは竹山のこと。「伯」は長兄、「慶」は字の子慶を表す。

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    間中今古・積善 竹山居士・薜茘窩かんちゅうきんこ・せきぜん ちくざんこじ・へいれいか

    薜茘窩
    「薜茘」は竹山の書斎。「薜茘」はまさきの蔓草。寛政十二年(1800)、中井蕉園が竹山の『中庸定本』を刊行した際、竹山は「大日本津国浪華後学中井竹山子慶書於薜?窩」と記している。なお、竹山の父の甃庵の書斎の名を「此君窩」と称した。

    間中今古
    「閑中今古」は朱子のことば。閑静な中で古今に思いを致すこと。『朱子文集』六先生画像賛・康節先生に「閑中今古、酔裏乾坤」とある。

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    井渫老人せいちょうろうじん

    「井渫」は『周易』に基づくことば。『周易』井卦、九三の爻辞に「井渫不食。為我心惻。可用汲。王明、並受其福(井さら渫えども食われず。我が心のいた惻みを為す。もっ用て汲むべし。王明らかなれば、並びに其の福を受けん)」、その象伝に「井渫不食、行惻也。求王明、受福也(井渫えども食われずとは、行くもの惻むなり。王の明らかなるを求むるは、福を受うけんとするなり)」とある。

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    積善之印・青山不老せきぜんのいん・せいざんふろう

    青山不老
    「青山不老」は、青々と茂った山のように老いないこと。

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    薜茘窩・護封・子慶へいれいか・ごふう・しけい

    薜茘窩
    「薜茘窩」は竹山の書斎。P58参照

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    竹山・山高水長・護封ちくざん・ごふう・さんこうすいちょう

    山高水長
    「山高水長」は、山が高くそびえ、川の流れが長いのに喩えて、人品が高潔で、その遺徳が後世まで伝わること。唐・劉禹錫・望賦に「龍門不見兮、雲霧蒼蒼、喬木何許兮、山高水長」、宋・范仲淹・桐廬郡嚴先生祠堂記に「先生之風,山高水長」とある。

    • 103
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    海上釣鼇客かいじょうちょうごうかく

    「鼇客」とは、豪放不羈な性格、遠大な理想を抱く人の意。唐の李白、王厳光などは「釣鼇客」と自称した。懐徳堂文庫では、『奠陰略稿』に「海上釣鼇客」印が押印されている。

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    善 竹山・經術文章ぜん ちくざん・けいじゅつぶんしょう

    經術文章
    懐徳堂内に掲げられていた堂聯のことば。この聯は、本来、「經術心之準繩、文章道之羽翼(経術は心の準縄、文章は道の羽翼)」という上下二句から成っており、各々一枚の紙に筆写され、左右相対して掲げられていた。現在、懐徳堂文庫に伝わっているのは、向かって左側にあった下聯「文章道之羽翼」のみである。「経術」とは儒学の経典に関する学術、「準繩」とは水平を測るみずもりと直線を決める墨縄。転じて、規則・標準の意。「羽翼」とは、鳥の羽と翼。転じて、鳥の羽のように左右から補佐することである。この聯に対する解説が、竹山の書簡を集成した『竹山先生国字牘』に見える。その中で竹山は、若年の頃から学問修行の主旨は「経術」「文章」の二つにあり、この二つを極めなければ大成とは言えない。「羽翼」は単なる補佐という意味ではなく、まさに鳥を飛ばすことのできる翼の意味であり、飛翔させる道具として喩えたものである。宋代の儒者は、久しく廃絶しかけていた聖学を後世に伝え、正しい道を飛翔させたが、それは文章によってである。その文章が美しかったからこそ、時間・空間を越えて飛翔したのであると解説し、自ら「修身の事業はこの一聯にあり」と、この聯の内容を極めて重視している。竹山が記したこの聯は、文章を軽視する当時の風潮を批判し、「経術」と「文章」とが表裏一体の関係にあることを宣言しているのである。

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    天遊・積・善てんゆう・ぜん・せき

    天遊
    「天遊」は自在に遊ぶ意。『荘子』外物篇に「胞有重閬、心有天遊」とある。

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    子慶・考槃・渫翁こうはん・しけい・せつおう

    考槃
    「考槃」は「考凡」に同じ。殷代における招神の儀礼。『詩経』国風・衛風・考槃に「考槃在澗、碩人之寛(槃を考して澗に在り、碩人之れこの寛まし)」とある。毛伝・集伝とも、この詩を隠遁の部屋を作り、憂いなく生活すること(隠者退隠の詩)と解する。

    渫翁
    「渫翁」は竹山の号。

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    積善・經術文章・竹山けいじゅつぶんしょう・せきぜん・ちくざん

    經術文章
    「經術文章」は堂聯に基づくことば。P71参照

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    戰兢臨履・雖無文王猶興せんきょうりんり・ぶんおうなしといえどもなおおこる

    戰兢臨履
    懐徳堂の講堂北側の窓に掛けられていた聯「北 聯」の上句に基づくことば。北牖聯の原文は「戰々兢々如臨深淵如履薄氷 謝朝華於己披啓夕秀於未振」。前句の十二字は、『詩経』の語。『詩経』小雅・小旻の詩に「戦々兢々として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し(戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰)」と見える。また、『論語』泰伯篇には、孔子の弟子の曾子が臨終に際してこの語を引いたとされる。曾子の言は、「曾子疾あり。門弟子を召びて曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云う、戦々兢々として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如しと。而今よりして後、吾れ免るることを知るかな、小子(曾子有疾。召門弟子曰、啓予足、啓予手。詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。而今而後、吾知免夫小子)」とあるように、孔子の弟子の中でも最も「孝」を重視した曾子が、親から授かった肉体を保全することに細心の注意を払ってきた(身体を傷つけないことは「孝」の第一歩とされた)、その心境を、まるで底なしの淵に臨むような、薄い氷の張った水の上を歩くような「戰戰兢兢」とした気持ちであると述べ、また、死によってそうした緊張から解放されることを述べたものである。後句についてはP85参照。この両句は、構成上も意味上も、直接には対応しないが、前句が生活態度について、また、後句が文章について、いずれも極めて高い理想を掲げていることが分かる。

    雖無文王猶興
    『孟子』尽心上篇に「孟子曰、待文王而後興者、凡民也。若夫豪傑之士、雖無文王猶興(孟子曰く、文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王無しと雖も猶お興る)」とある。西村天囚『懐徳堂考』序文は、この言葉を引用し、大阪学術の興隆を讃えている。

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    非艸非木九仞一簣くさにあらずきにあらずきゅうじんいっき

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    往者余弗及來者吾不聞ゆくものはわれおよばずきたるものはわれきかず

    「往者余弗及來者吾不聞」は『楚辞』に基づくことば。『楚辞』遠遊に「往者余弗及兮、來者吾不聞(往く者は余及ばず、来る者は吾聞かず)」とある。

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    謝朝華啓夕秀ちょうかをしゃしゆうしょうをひらく

    懐徳堂の講堂北側の窓に掛けられていた聯「北牖聯」の下句に基づくことば。北牖聯の原文は「戰々兢々如臨深淵如履薄氷 謝朝華於己披啓夕秀於未振」。後句十二字は、陸機(字は士衡)の語。『文選』所収の陸機の文章論「文賦」に、「百世の闕文を収め、千載の遺韻を采り、朝華を已に披くに謝り、夕秀を未だ振わざるに啓く(收百世之闕文、采千載之遺韻。謝朝華於已披、啓夕秀於未振)」と見える。これは、陸機があるべき文章について、百世の間見られなかった文を収め、千年の間使われなかった韻を用い、すでに開いてしまった朝の華(使い古された表現)を捨て去り、まだ開いていない夕方の華を咲かせようとする、と述べたものである。上句についてはP81参照

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    獨寐寤言永矢弗諼ひとりいねゆめにいうながくちかえわするることなかれと

    『詩経』に基づくことば。75で解説した『詩経』衛風・考槃のことばに続いて、「獨寐寤言、永矢弗諼(独り寐ねゆめ寤に言う、永くちか矢えわす諼るることなかれと)」(一人で寝ていても、夢の中で、この憂いのない隠遁生活の楽しみを忘れないと誓う)とある。

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    力學修己立言治人がくにつとめておのれをおさめげんをたててひとをおさむ

    入徳門聯に基づくことば。P4参照

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    井渫不食爲我心惻せいさらえどもくらわれずわがこころのいたみをなす

    『周易』井卦九三の象伝のことば。P59参照

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    懷德堂圖書記かいとくどうとしょき

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    懷德書院祭酒・成郡中井家藏之記かいとくしょいんさいしゅ・せいぐんなかいけぞうのき

    成郡中井家藏之記
    「成郡」は当時、懐徳堂のあった大坂「東成郡」を指す。

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