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懐徳堂入門

懐徳堂の果たした役割

商道徳の育成

重建懐徳堂玄関前、関係者の集合写真
 (重建懐徳堂玄関前、関係者の集合写真)
 懐徳堂は大坂町人によって創設され、町人に開放された異色の学問所でした。しかし、懐徳堂で講じられていたのは、商売や利殖の話ではありません。大坂町人が求めたのは、商業活動の基盤となる根本的な精神の問題でした。これに応えて『論語』や『孟子』といった中国の古典が読まれたのです。
 「忠孝」という「まごころ」や正義を基盤とした商業活動には、後から必ず「利」がついてくる。懐徳堂では、「義」と「利」の関係がこのように説明されていました。これは大坂町人を勇気づけ、その商道徳を育成していったのです。


大坂学術の発展

 初期の懐徳堂では、第二代学主中井甃庵(なかいしゅうあん)の頃から、高度な学術研究も展開されるようになりました。第四代学主中井竹山(なかいちくざん)・履軒(りけん)兄弟の頃にはその全盛期を迎え、江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)をもしのぐ勢いがあったと伝えられています。


(宝暦八年定書)

 また、懐徳堂の受講生は、身分の上下にかかわらず「同輩(どうはい)」であるとされていました。こうした学問的雰囲気の中から、懐徳堂出身の町人学者として、富永仲基(とみながなかもと)、山片蟠桃(やまがたばんとう)、草間直方(くさまなおかた)といった、時代を先駆ける異才が誕生したのです。


大阪の市民大学・文科大学

 当時の大坂で「学校」と言えば「懐徳堂」を意味しました。懐徳堂の薫陶(くんとう)を受けた受講生の模範的態度が美風とされ、「学校風(がっこうふう)」あるいは「学問所風(がくもんじょふう)」と呼ばれました。
 また、大正時代に再建された懐徳堂も、多くの市民に親しまれました。当時まだ大阪大学に文系学部がなかったこともあり、懐徳堂は大阪の市民大学・文科大学としての役割を果たしたのです。

  
(嘉永5年中興漢学名家録、五井蘭洲、中井竹山、中井履軒などの名が見える)

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